明らかにされたクリヤヨガ

伝統的なヨーガの情報とクリヤヨガの技法をお伝えします

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スワミジの言葉 イエスの生涯 新連載 65

「イエスの約束 」

シュリ・スダルシャン・シャルマ ②

 

 

 

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エス様はこのことを理解しており、

自身の命をかけて人々に道を示しました。

しかし、皆さんは時々このように思われるでしょう。

一体全体、何故この世に悪が存在し、

私たちを苦しめるのか?

私たちを救えるという存在がいるのなら、

どうしてこの地上から悪を消し去ってくれないのか?と。

 

 

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何故、悪が存在するのかを誰も知りません。

悪が存在すべきか否かさえ理解できないのです。

それでも私たちは悪を克服することができ、

各々がその影響を最小限にでき、

そして他者が悪に打ち勝つのを助ける、

その方法を知っています。

悪というものは謎に包まれています。

悪は常に存在し続けるでしょう。

なんとなれば、悪とは実在に特有のものだからなのです。

このことについて、イエス様はこう語っておられます。

 

「つまずき(悪)が起こることは避けられない」

マタイ福音書18章7節

 

「あなたがたは世にあっては患難があります」

ヨハ福音書16章33節

 

ここで重要なのは、悪が存在していても、

その悪を克服する方法があるということ、

そして、私たちのことを心の底から心配し、

助けてくれる方がいるということなのです。

これで十分ではありませんか。

 

 

OM OM OM一切のものに平安あれ!

スワミジの言葉 イエスの生涯 新連載 64

   「イエスの約束 」

シュリ・スダルシャン・シャルマ ①

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「疲れた者、重荷を負う者は、

だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」

マタイ11章28節

 

「父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。

そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。」

ヨハネ福音書6章 37節 

(原文では36節だが新約聖書と照らし合わせて訂正 訳注)

 

これはイエス様からの招待状です。

皆さん宛の、親密でとても優しさに溢れた招待状です。

これは必ず守られる約束です。

天地は滅んでも、主の言葉は決して滅びることはありません。

なぜなら、この言葉はイエス様からだけではなく、

主を遣わした)からの約束でもあるからです。

主は自分の思いではなく、天の御父の意志のみを求めています。

 

 

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不幸のために心の平安を失っている全ての人宛に、

主はこの招待状を送りました。

運命の荒々しい手によって、

残酷にも打ちひしがれている人々は皆、

希望と勇気、そして慰めを与えられるでしょう。

真に、イエス様は不幸せな者の為にこの地上にきたのです。

多くの人が、陽の輝く下にいながら、生きる意欲を失い、

すすり泣きとため息の中、苦しみに満ちた人生を生きています。

しかし、多くを失ったと考えるのは間違いです。

なぜなら、

それらを補って余りある大いなる希望が待っていますから。

皆さんは孤独ではないし、見捨てられてもいません。

皆さんのことを深く気にかけている方がいるではありませんか。

彼の望みは唯一つ、

未だ成就に達していない魂を完成させることです。

もし、皆さんが、

エス様には救いの力があるのだと信じ、彼に付き従うのなら、

彼は道の途上のすべてのイバラを取り除き、

道を整えて真っ直ぐにしてくれるでしょう。

信仰を持つ者は誰も決して失われることはありません。

それに比べ、ああ!不信仰な者は何と悲しい定めでしょう!

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エス様は非難し、排斥するために来たのではなく、

人々を受け入れ救うために来たのです。

これが、理論哲学体系の提唱者としてではなく、

主が救い主として世に知られている理由です。

また、主が知性よりも愛に重きを置く理由もこれです。

人は知識の光によってのみでは生きることはできず、

親密な愛の暖かさを必要としていることを、主はご存知でした。

人は理解される必要があり、さらには、

災難からくる失意と悲しみから救われなければなりません。

人はどのような状態に陥ろうとも、

生きる望みを持ち、平和と幸福を望むものなのです。

 

 

OM 一切のものに平安あれ!

スワミジの言葉 イエスの生涯 新連載 63

 


今回は「暗夜」という重要なテーマのため

 

翻訳を繰り返し読み返し 校正を繰り返ししていたため

 

記事の更新に大変な時間がかかって しまいました。

 

申し訳ありません。

 

エゴの死 そして その過程で訪れる

 

感覚の無味乾燥な味わい

 

自我の死

 

これらについては 16世紀のカトリックの聖者

 

十字架の聖ヨハネが「カルメル山登攀」「暗夜」

などの著作の中で 詳しく述べられています。

 

エスの生涯の著作のなかで納められている

 

スワミ チダーナンダやスワミ クリシュナナンダが

 

解説しているのは まさにこのテーマについてです。

 

あまりにも深遠な内容ですが

 

ヨーガの真髄について語っているのです。

 

 

どうぞ 繰り返しお読みください。

 

OM

 

 

 

 

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 霊的修行者の鏡・キリスト 

スワミ・クリシュナナンダ

 

イエス・キリスト、世の光、最高のロゴス(神の言葉)は、

比類ない鏡、模範として、犠牲、愛、知恵、

真実を実現する為に人類の前に姿を現しました。

 

人としてのイエス様は、

サダカ(霊性修行者)や霊的な道への参入者にとって、

霊的な人生、内的な生命の技巧を反映しています。

キリスト、人の子は人類の生命と声の長であり、

いわば人の要、本質的実体が姿形をとったものの総計、

神の子、宇宙の君主の輝きが化身した存在なのです。

霊の結晶化であり、神秘的なキリストと呼ばれる光は、

闇から世を救うために生まれました。

 

この「世の闇」とは外的な現象ではないため、

「闇を取り除く者」とは物質的人格を意味していません。

偉大なる人々は外見では見分けがつきません。

偉大なる人物と、物質的な姿形には関係がありません。

 

 

立ち振る舞い、行い、性格、言葉、思い、

想いと意識の表現など、あらゆる面から、

偉大な人は見分けることができるのです。

偉人の存在は、これらの特別な特性から、

推し量られ、ダイレクトに認識できます。

 

素晴らしい霊のオーシャン、全存在の心臓に住まう方、

全ての人の瞳に瞬く光におわす大いなる神、

それらを理解している者こそ偉大です。

 

キリストの内に偉大な霊的人物と、

彼の生涯のドラマにアディヤートミカ・サダナ、

(最高霊の霊的修行)が描かれています。

キリストは降誕から昇天に至るまでの間に、

神の壮麗さを世に示し、

この地上に神の栄光を証ししました。

 

霊の幼子がお生まれになる時、

闇の帝国の支配者は幼子を抹殺しようとするので、

大変な思いをしても、子をお守りしなければなりません。

子が成長するならば、子それ自身がご自分を世話するでしょう。

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各々の人が、霊的な幼子の親であり、

幼子が生まれた国の王、つまりエゴ(自我)の猛襲から、

幼子自身に身を守らせなければならないのです。

霊的意識が漸進的なステップによって出現しようとすると、

非霊的な力の反乱は、自然であり避けられないものです。

火にギー(バターオイル)を注ぐと、ギーは燃え上がりますが、

さらに、燃えさかる炎の上に大量のギーをさらに注ぐと、

炎の勢いは消されるでしょう。

 

しかし、やがて炎が大きく勢いづけば、

どれほど大量のギーでも燃やし尽くされるのです。

それと同じように、霊的な炎の煌めきも、

その火が幼子の段階では、世俗的な傾向に圧倒されていますが、

霊的意識の火が燃えさかると、

全ての世俗性と悪を燃やし尽くすのです。

 

いわゆる神秘主義の用語で「魂の暗い夜」と呼ばれるものは、

無知の暗闇の中で、意識の息が詰まりくすぶっている段階です。

スリ・クリシュナの誕生は、この事柄について関係し、

同様の事実を指し示しています。

また、バカヴァッドギータの最初の章では、

高みを目指す魂がこのような状況の中で、

落胆する様が克明に描かれているのです。

(アルジェナが弓を投げ出して戦意を失う様のこと 訳注)

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肉の衣(鞘 コーシャ)から自由になり始めた、

生まれたばかりの未完成な霊の仕事とは、

なんとかして外なる性質(エゴ)の攻撃から身を守ることです。

高位次元へと上昇すれば、さらなる問題が起こるでしょう。

肉の欲という粗悪な性質の森を抜け出ることは、

大変な困難であることは間違いありません。

しかし、さらに困難で危険なのは、

外へとむかう宇宙的活動の枢軸である、

捉えがたい力、脈打つ精神的資質を克服する試みです。

精神的資質(エゴ)の目を眩ませるに十分な光を、

霊魂が放つ時、この力は反乱をおこすのです。

 

しかし今や、この低い資質の反乱など取るに足りません。

なぜならば、

経験と霊的知識からくる驚くほどのパワーが魂に啓示され、

肉の欲と低い資質の働きは磔にされるからです。

 

 

(人の内在するプラーナは常に外へ、下へ流れる。

この力が人を世俗的にする。

この流れを逆向きに変えるのが、プラティヤハーラである。

クリヤヨーガの科学を説明している。訳注)

 

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利己主義の衣は投げ捨てられ、

荒れ狂う情欲の性質は罰せられ、

人の子は、神の子としての権利を行使して、

再び神の王国に入ります。

 

キリストをとおして、

インドの「ジーヴァンムクタ」を理解できます。

ジーヴァンムクタ 生前解脱を遂げた人 訳注)

昼間に冷たい水の中に腰まで浸かると、

寒さと暑さを同時に感じることでしょう。

 

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そのように啓発を得た賢者は、肉体に宿り地上で活動しますが、

足を地につけたまま、頭とハートは天国にとどまり、

問題を抱えながらも至福を味わうのです。

エス様がこの世にこられたのは、

人生の目的とは、「何かを成し遂げる」ことではなく、

「何になるか」ということであることを、

人々が経験を通して知り、理解するためなのです。

私たちが注意力をもって行うべきことは、

間違った行動を改めるよりも、

間違った行動の原因と根源である、

私たちの内にある本質的な欠陥を改めることです。

 

 

新たに生まれない限り、人間には何の希望もありません。

まったく違う者になること、自分の本性を変えること、

比類の無い霊的経験へと参入することは、

いわば肉欲の生命に死に、

高次の意識に生きることを意味しているのです。

ユダヤ儀礼で述べられているのは、

キリストの教えを実行する者が経験する意識についてであり、

これこそが人の究極の安らぎであります。

現在のところ、狭い聖櫃(意識 訳注)の中には、

あらゆる腐敗と苦しみが閉じ込められています。

厳格な儀式と律法への服従は霊的に初歩の段階であり、

栄光ある神の意識の内に完全な自由があります。

 

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人は生まれながらにして宇宙の子供ですが、

再び生まれることで神の子となるのです。

セルフコントロールと禁欲主義は、内なる平和への道です。

世俗の悦びは、何の助けにもならず、

無益であり、人を悩ませ欺くだけです。

世を愛する者は父を愛することはありません。

 

 

霊的な知識を持つ生徒たちの間では、

キリストはアディカリベーダを意識して教えました。

特に灌頂(イニシエーション)を受けた人々、

内側の意識を喚起することができる人にはより高い知恵を伝え、

一方、外の事柄に囚われている人々には、

譬え話で教えていたのです。

「あなた方には、神の王国の神秘が与えられています。

しかし神秘を与えられていない人々には、

すべてのことは譬え話をもって教えているのです」

「主は聞く耳を持つ人々に、多くの事柄を譬え話で話され、

譬え話なしに教えることはなかった。

しかし弟子たちには、密かにすべてのことを詳しく説いた」

(マタイ福音書13章1-50節 参照 訳注)

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アディカリベーダ Adhikaribheda

Adhikari-bhedaの原理は、

ウパニシャッド、ブラフマスートラ、ギータの教えの基礎。

あえて訳するならば、直感的認識、直感的知識の総括。

例えば、知性と学問による知識だけでは、

アルジュナが戦士としての義務を果たすために、

アヒンサーに反して殺人を行なったことは理解できない。

また、頭だけで理解すると殺人を肯定することになる。

まさに魂で聞く能力が求められる。 訳注)

 

 

エス様は弟子たちにはっきりとこう語っています。

「多くの教えを人々に伝えたかったが、

彼らは殆ど理解できなかったと」

あらゆる点でイエスの教えはヒンズー教や仏教の理想に近く、

実際のところ、より古い宗教の倫理的教えそのものなのです。

個としての直接的な死、

もしくは非存在(自我の消滅 訳注)とは、

これらすべての宗教によると、

豊かな人生を新たに始めるための条件です。

 

生に満ちた不死の海に溶け込むには、

まず死の杯を飲まなければなりません。

一般的に言って、

地上の誰もこの指示に従うための用意ができていません。

このことについては、聖書のある場面に描かれています。

(死の前日)主は死の杯が取り除かれることを願いました。

その時、主の目は開かれ、明確なビジョンを得たのです。

杯を拒否する想いは、霊魂を逼迫している低い資質の力でした。

そこでイエス様はこう言ったのです。

「(父の)御心のとおりにしてください」と。

(ルカ福音書 22章39節 ゲッセマネの祈り 参照)

 

 

この世俗的生活におけるストレスは、

霊魂の高貴で崇高なる高みにまで絡みつくために、

明白な敵意に直面しながら、自己のバランスを保つことは、

確かに途方もない務めです。

エス様のような、ほんの少数の人々が、

絶えず深みへと沈思して、

霊的で超経験的な慰めなる意識を取り戻すのです。

エス様の全生涯とは、

霊魂が目的地へ向かって歩んでいく物語であり、

それは意識が完全に開花していく様子を表しています。

人生とは惨めなものだと、

キリストは説教したのではありません。

所有しているもの全てを売り払い、

すべての持ち物に別れを告げることにより、

私たちの魂を空にすることができ、

さらには、聖なる黙想をとおして、

崇高なる霊を実現することを教えたのです。

神聖なるものを実現するためには、

見せかけの世界を拒絶することは必須条件です。

汚物が縁まで詰まっている容器に、

ネクター(不死の御神酒)を満たすことなどできません。

 

 

霊的生活とは、世俗的な意識を躊躇なく克服し、

超越意識もしくは神の意識へと自己を浸透させることです。

理想的な人生を望む学生や志願者は、

エス様の行い、生涯や教えからインスピレーションを受け、

聖なる敬虔な人生、謙虚さと清貧のうちに生きるべきです。

貧しい人々の友となり、自分を愛するように隣人を愛し、

すべてを他者のために犠牲にするのです。

彼のために共に泣き耐え忍んであげなさい。

肉からくる欲と、その情熱を打ちのめして、

死ぬことにより永遠の生命に生まれるのです。

それは、あるようには見えるが、

実際には滅びゆく事柄への信仰を捨てることを意味し、

自分に関しては必要なものも、如何なることも憂うことなく、

神が時を超えた知恵でもって全てをお世話してくれるのだと、

万物の創造主の全能性を固く信じることです。

この新たに生まれた魂こそ、

賢者、リシ(聖賢)、ムクタ(解脱者)であり、

罪を贖われ神と一なった者です。

 

 

子(キリスト)と父(創造主)は一つです。

宇宙は美徳と知恵の素晴らしい花を咲かせると、

稀で熟した果実である聖人を生み出します。

そうして彼を人類の華として傑出させ、

彼は偉大なる父のために犠牲となります。

これが存在の完成です。

キリストの天国への昇天が意味することは、

神の意識を取り戻すことなのです。

キリストは、「天の国は私たちの内側にある」と教えた、

世に二つ無き霊的な先生であります。

主のその他の教えはすべてこの教えの解説です。

彼の教えは、

「私と天の父は1つです」

という声明に要約されます。

個なる魂は、最高の存在と一つなのです。

アヤムアートマ ブラフマ。

サルヴァム カールヴィダム ブラフマ。

ジーヴォ ブラフマイヴァ ナーアパラハ。

オーム タット サット。

 

 

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 オーム シャンティヒ 

 

 

スワミジの言葉 イエスの生涯 新連載 62

 

霊的志願者とキリスト 

スワミ・クリシュナナンダ②

私たちはキリストの内に偉大な霊的人物と、

生涯のドラマにアディヤートミカ・サダナ、

(最高霊の霊的修行)が描かれているのを認めます。

 

キリストの降誕から昇天に至るまでの間、

エス様は神の壮麗を世に示し、

この地上に神の栄光を証ししました。

霊の幼子がお生まれになる時、

闇の帝国の支配者は幼子を亡き者にしようと試みますが、

大いなる困難があっても子をお守りしなければなりません。

子が成長するならば、子それ自身がご自分を世話するでしょう。

 

 

人はおのおのが、生まれたばかりの霊的な子の親であり、

幼子が生まれた国の王、つまりエゴ(自我)の猛襲から、

子自身に身を守らせなければならないのです。

霊的意識が漸進的なステップによって出現しようとしている時に、

非霊的な力の反乱は自然と起こり避けられないものです。

火にギー(バターオイル)を注ぐと、ギーは燃え上がりますが、

燃えさかる火の上に大量のギーをさらに注ぐと、

炎は消えてしまいます。

炎が燃えさかると、その火によってギーは燃やし尽くされるのです。

同じように、霊的な炎の煌めきも、

その火が幼子の段階では、世俗的な傾向に圧倒されていますが、

霊的意識の火が燃えさかると、

世俗性と全ての悪を燃やし尽くすのです。

神秘主義の用語で「魂の暗い夜」と呼ばれるものは、

無知の暗闇の中で、意識の息が詰まりくすぶっている段階です。

スリ・クリシュナの誕生は、この同様の事柄について関係しており、

同様の事実を指し示しています。

また、バカヴァッドギータの最初の章では、

高みを目指す魂がこのような状況の中で、

落胆する様が描かれているのです。

(アルジェナが弓を投げ出して戦意を失う様のこと 訳注)

 

 

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しかし、霊である自己は成功する運命にあり、

無知の根と枝を破壊するでしょう。

芽吹き始めた霊が、外なる性質の攻撃からなんとか身を守り、

肉の衣から抜け始めたとしても、

まだ霊の働きは完成されてはいません。

さらに大きな問題は、より高い自然の世界から生じます。

疑いようもなく、

物質的で粗悪な肉体の森を抜け出ることは大変な困難です。

しかし、さらに困難で危険なのは、

外へとむかおうとする宇宙的活動の枢軸である、

脈打つ精神的な性質の捉えがたい力を克服する試みです。

(人の内在するプラーナは常に外へ、下へ流れる。

この力が人を世俗的にする。

この流れを逆向きに変えるのが、プラティヤハーラである。

クリヤヨーガの科学を説明している。訳注)

スワミジの言葉 イエスの生涯 新連載 61

霊的志願者とキリスト 

 

スワミ・クリシュナナンダ①

 

 

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イエス・キリスト、世の光、最高のロゴス(神の言葉)は、

犠牲、愛、知恵、真実を実現し、

比類ない鏡、模範として人類に姿を現しました。

人としてのイエス様は、

サダカ(霊性修行者)や霊的な道への参入者にとって、

霊的な人生、内的な生命の芸術を反映しています。

キリスト、人の子は人類の生命と声を代表しており、

いわば人の要、本質的実体が姿形をとったものであり、

神の子、宇宙の君主の輝きが化身した存在なのです。

霊の結晶化であり、神秘的なキリストと呼ばれる光は、

闇から世を救うために生まれます。

この「世の闇」とは外的な現象ではないため、

「闇を取り除くこと」とは物質的な性格なものではありません。

偉大なる人々は外見では見分けがつきません。

偉大なる人物かどうかと肉体の姿形には関係がありません。

 

 

立ち振る舞い、行い、性格、言葉、思い、

あらゆる種類の意識の表現によって、

偉大な人は見分けることができるのです。

これらの特別な特性から、偉人の存在は推し量られ、

またダイレクトに認識されるのです。

霊の素晴らしい大海を理解し、

全ての人の瞳の中で瞬く光と、

全ての存在の心臓に住まう大いなる神、

彼こそ偉大なる者です。

スワミジの言葉 イエスの生涯 新連載 60 チダナンダジの言葉  全文

 

今回も ものすごく時間がかかってしまいました

 

30代まではSRFを中心に ヨガナンダ先生の教えを研究していましたが

30代以降はシヴァーナンダ先生の教えを学び

TTCとATTCを卒業しました

 

もちろんヴェーダの世界がそれで学び終わるわけではありません

 

以前からのシャンチャリヤのブラフマスートラも合わせて

研究を進めてきましたが

 

今回 シヴァーナンダ先生の弟子とも言われるチダーナンダジ

 

そしてクリシュナナンダジの著作などを翻訳してみて

 

あまりにもヴェーダの理解が深くて驚愕しました

 

その英語の文章を 日本語にする過程で

 

あまりのストレスで しばらく PCを開けることもできなかったわけです

 

なぜなら 文意はもちろん 日本語にするときに

 

適切な言葉を探すのに 2〜3行で2時間や1日かかることもあるからです。

 

 

ですから 翻訳をお待ちいただいている方々にいは 大変お待たせしました

 

あともう少しで 翻訳が終わりますので(この本に関しては)

 

 

よろしくお願いいたします。

 

 

 

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      キリストの聖なる生涯 

スワミ・チダナンダ

 

世の光よ、私の心は汝をお慕いします!

主よ、全くの謙虚さを持って、

幾たびも幾たびもあなたを伏し拝みます!

栄光が世々限りなく汝のものでありますように!

 

キリストである主イエスは存在します。

今ここにいるのです!

キリストは永遠なる存在だからです。

主は言葉によってではなく、

栄光ある復活によって、この真実を世に宣言しました。

それでは、どこを探して彼を見つけられるのでしょうか?

主は美徳と善意があるところにおられます。

神聖な愛、純潔、真実、聖性、祈り、

絶え間ない奉仕と完全な自我の放棄の中に主は鎮座しています。

信仰、献身、謙虚さ、心を鎮めて神の意志への忍従、

憐れみと、正義への紛うことなき渇望、

これらによって光り輝くハート(心)の内にキリストは存在し、

煌めき、生命を燃やし、輝かしく顕現されるのです。

 

 

ああ、愛すべき兄弟たちよ!

エス様のようになりなさい。

そうすれば、自身のうちにキリストを見つけるでしょう。

 

キリストが私たち一人一人のうちに生きるべきです。

主の存在も行いも過去のものではなく、

私たち自身を通してこそ、主の人生もその業も

本質(ブラフマン 訳注)へと捧げられ、

栄光あるものとなります。

この重要な霊の王国の法を、

明白な言葉で世に知らしめた、偉大な魂たちのなかに、

トマス・ア・ケンピスがいます。

(トマス・ア・ケンピス:

ドイツのケンペンの生まれ。

「キリストに倣いて」の著者として有名。 訳注)

 

 

もし、あなたが光、お恵み、永遠の生命という、

天の国を手に入れたいと望むならば、

キリストに倣い、行いと人生を主に似たものとしなさい。

この点については、救い主の直接的で明確な教えの中でも、

さほど強調されてはきませんでしたので、

主ご自身の言葉から説明しましょう。

「主よ、主よ。と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、

天におられるわたしの父の御心を行なう者がはいるのです」

この聖なる父の御心(意志)が人格化し、

聖なるイエス・キリストの本質となったのです。

キリストに倣いて、キリストに従い、

キリストの想いにかたどられた者となり、

私たちの人生の行いの中で、

キリストの崇高なる訓戒の一つ一つを実行することこそ、

天の父の御心を行う、最も完全で有効な方法なのです。

あなたがキリストのものになりたい、

主の聖なる交わりの一員となりたいと、真摯に望むならば、

「神の御心を行う者が、私の兄弟、姉妹、私の母です」

と主が言われたように、

この道こそ唯一無二なのです。

 

 

私たちの内にキリストが存在し、

私たちの行いがキリストの行いとなること、

すなわち、

私たちがそれの内に存在し行動することにより、

偉大な価値、本当に意味あるもの、深い意義である、

キリストの生命がもたらされます。

 

神への道をどのように歩むかを教えるために、

主キリストはご自身と生涯を道として人類に捧げました。

聖なるものへと変容するための方法を、

主ご自身を通して具現化したのです。

あなたの小さい人間的な自我から上昇し、

キリスト意識へと達することは、

非実在から実在(リアリティー)に、

暗闇から永遠の光に、

そして死から、喜びに満ちた永遠の生命に入ることです。

 

 

あなたの前に、輝ける模範、

キリスト者としての理想があるならば、

「道がわからない。どの道を行けばいいのか?

道を知ってさえいれば喜んでキリストに従うのに」

などという言い訳は絶対にできないでしょう。

「わたしが道であり、真理であり、生命なのです。

わたしを通してでなければ、

だれひとり父のみもとに来ることはありません」

ヨハネ福音書14章6)

キリストのこの言葉が鳴り響いているではありませんか。

はい、まことに、まことにその通りであります。

永遠の生命なる王国の扉を開ける、

唯一無二の間違いのない確実な鍵とは、

キリストの理想のうちに成長することです。

 

この変容をもたらすために、

私たちが主の言葉と行いから識別できるのであれば、

非常に貴重な手掛かりとなるものを、

救い主はご自身をもって私たちに与えたのです。

 

 

救い主による神殿の清めと、

(マタイ21、マルコ11、ルカ19、ヨハネ2章参照 訳注)

エリコの取税人ザアカイの家への訪問を思い起こしましょう。

ルカによる福音書19章1~10 訳注)

主の訪問によって、ザアカイは今までの生き方を変えて、

過去の行いを償い、義人として生きる決心をしたのです。

これが教えであり、霊的変容の真の秘密です。

まず、あなたの内なる性質を徹底的に清めてください。

あなたのハートの寺院の基礎となる要素を、

すべての残酷さ、欺瞞、何でも値踏みする精神、

世俗性から浄化するのです。

ハートの寺院を神のまことの家にしましょう。

これが行われれば、あなたの人生はガラリと変わります。

心を完全に入れ替えなさい。

罪から自由となり、

永遠の生命と尽きぬ恵みを受けるに相応しい者となれば、

救いはあなたのものです。

キリストは、まさにこの霊的生活の法則について、

誠実なパリサイ人ニコデモに、サダナについて解説したのです。

それは、より完全で直接的な表現でした。

 

 

この法則について繰り返し述べましょう。

それは主が、小さな子供が来るのを許したときの言葉です。

「誰でもこの小さな子供のようにならなければ、

天の王国に入ることはできないだろう」

そうです、あなたはもう一度生まれなければなりません。

そして純粋で、無垢でエゴがない者となり、

子供のようになることが求められるのです。

そして、そうなるだけで、

光り輝く至福の王国の扉があなたに向かって開かれるでしょう。

しかし、まことの、

心からの完全な変化であることを心に留めてください。

口先だけ、表面的な振る舞いなど、

単なる外側だけの変化ではいけません。

あなたは、完全に「違う人」「新しい人」に、

ならなければならないのです。

古い人は完全に消滅しなければなりません。

 

エスご自身の素朴な人格は、崇高な子供として、

すなわち素朴で純粋、無垢でエゴがない、

父の子として象徴されています。

子は完全に父を信頼しています。

彼こそ父が「大いに喜ぶ」「愛しい息子」なのです。

 

 

彼のようになるためには、彼に従いなさい!

これはキリスト霊からの人類への召し出しなのです。

恵みに満ちた日々、ベツサイダのピリポに、

主はスリリングな2つの言葉を投げかけました。

主は今もその言葉で私たちに呼びかけておられます。

「私に 従いなさい」

従うべきです。

これは、主の生涯の細部に至るまで、表面的に従うのではなく、

主の徳、愛と憐れみ、完全な自我の消滅という、

輝ける内なる道を登っていくことを意味しています。

そうして、主に従うために自らを整えた、祝福された人々に、

主は特別な三つの戒めをもって道を指し示してくれます。

 

 

最初の戒めはこれです。

主の自由の終焉となった、悲劇的な最後の場面となる、

オリーブ山のある、運命のゲッセマネの園へ向かう途中、

パリサイ人がこう尋ねました。

「先生、律法の中で、最も大切な戒めはどれですか」

そこで主イエスから忘れられない言葉が述べられます。

「そこで、イエスは彼に言われた。

「神はただお一人です。

心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、

あなたの神である主を愛しなさい」と。

さらにこうも言われました。

「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」

これこそ、最高のヴェーダンタ的 アートマ バーヴァ!

(マタ福音書22章34~40  訳注)

「あなたがたに新しい戒めを与えます。

あなたがたは互いに愛し合いなさい。

わたしがあなたがたを愛したように、

そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」

ヨハネ福音書13章34  訳注)

 

 

ああ人類よ!この別れ際のイエス様の貴重な哀願に対して、

あなたがたは一体何をしてきましたか?

貴重な授かりものである崇高なキリストの愛は、

ああ人々よ、国々よ、民族たちよ、今やどこにあるのですか?

比類のない主の愛という宝が、

なんと残酷な所へと追いやられたのでしょうか。

霊的な盲目のために、致命的に受け入れてしまった、

この憎しみ、略奪という負の遺産は何処からきたのでしょうか?

貪欲で満ちた心というゴルゴタで、

優しいイエス様を十字架で磔刑に処したのは、あなたなのです!

ちょうど今日の世界で、

無力なエルサレムが神の愛と祝福を拒んでいるようにです。

これがこの公明正大な地上での運命というものでしょうか?

いいえ!断固としてNOです。

この世で信仰がある人たちがほんの一握りさえいれば、

ほんの僅かの人でも主に喜んで従う限り、

希望は人類の未来を明るく照らすでしょう。

彼らを通して、キリストの御霊はこの世を再び生き、

この地上を啓発してくれるでしょう。

彼らによってこの現代の真っ只中で、

キリストの霊が復活するでしょう。

 

 

信仰を持つ人々が僅かでもいれば、

人類にキリスト意識の祝福が与えられるのです。

主の教えはキリストそのものです。

主の訓戒にキリストは具現化されています。

これらの訓戒を生きる人は、彼の存在の唯一の目的である、

人生の主要な義務を果たしているのです。

キリストの人格と理想への敬愛、崇拝と賛美があるならば、

熱心さや活発の欠如、

上っ面だけの模倣などある筈がありません。

そのような偉大な人物の人生を、私たちは生きるべきです。

こうして、こうしてのみ、

あなたは自身を主の御霊で満たされるのです。

世界の人々が主の呼びかけに応え訓戒を守りますように。

一人、そしてやがて大勢の方が立ち上がり、

彼に従いますように!

よき羊飼いキリストが私たちを強めて、

暗闇と悲しみから、永遠の光、至福の永遠の世界へと、

安全に導いてくれますように!

栄光あれ、キリスト主イエスに栄光あれ。アーメン。 

スワミジの言葉 イエスの生涯 新連載 59 クリシュナナンダジの言葉  全文

 クリシュナナンダジの文章があまりにも難解すぎて

 

めちゃくちゃ時間がかかりました

 

特に後半の非二元論などの文章は 日本語にするのに物凄く時間がかかりました

 

どうやれば わかりやすい日本語になるか 試行錯誤しましたが

 

結果的に 余計わかりにくくなったかも知れません

 

申し訳ありません

 

脳に炎症が 起きてるんじゃないか くらい 知恵を絞りましたが

 

これが限界です

 

製本するときに もう少し追い込んでみます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  イエスの人生は  秘蹟そのもの 

スワミ・クリシュナナンダ

エス様は超越的な光の証人として来られました。

聖なる人たちは、宇宙の最高神である父の命により、

人類を無知、過ち、罪から救い出し、

正義と幸福に輝いた人生へと導くために肉体を纏うのです。

聖人ツカラム(Saint Tukaram)はこうおっしゃいました。

「私たちはヴァイクンタ(天国)に住んでいますが、

人類を助けるために地に降りるのです」

(聖ツカラム:

16世紀のインドの詩人・歌人

人生で一番大切なことは、神であるクリシュナを、

いつも想い讃えることだと説きました。

最後には神の国から迎えが来て。

生きたまま昇天したと伝えられています。訳注)

 

 

この宇宙を支配する「全能の霊的な法(Law)」は、

世界に姿を現し顕現するときに、

無限の姿形をとることができます。

そのような姿形(神の化身 訳注)は、

永遠の光を証しするために顕現されるのです。

神の子、キリストの受難の生涯は、永遠の象徴である存在が、

その源である父を、どのように証ししたのかを示す、

素晴らしい手本と言えるでしょう。

聖人の受難には克己の苦行として、故意に自らに課したものと、

外の世界からの働きによるものがありますが、

いずれにせよ、その生涯には偉大なる意味が含まれています。

「天の父を愛するために、この世への愛をあきらめ、

神の子のために命を捨てる者は、まことに生きる者となります」

この言葉に含まれる完全な意味はこうです。

神の子、偉大なる聖人はこの世に来ますが、

幻惑である地上の慣習や規則に、慣れ親しみ従うことを拒否し、

この世とは正反対の流れの力、

理想的な人生である特質を肯定します。

それは、この世俗の世界に神の正義を実現するため、

そして超俗的な不滅の法を証しするためなのです。

世知辛いこの世界に死ぬことによって、

人間の理知を超えた平和の中で生きることができます。

 

 

主キリストは、天の父の命に従い、

父のご意志を果たすために地上に来られたと仰いました。

また、父の天国は私たちの内側に存在するとも仰いました。

この言葉が意味することとは、

すべての内にある、霊的な法が現れるために、

聖者の生涯そのものが捧げられた犠牲であるということです。

すべての人々の内にあるもの(法)とは、

天の父から受け継いだ人間性と、本質(アートマン 訳注)です。

人としての生涯とは、自分自身の起源である善意、

愛と知恵と真実を実証するためにあります。

ユニバーサル(宇宙的)な人生を生きるためには、

天の偉大な父の表現である正義を主張することが求められ、

すなわち正義を遂行することこそ、

多様性から成るこの世界を一つにする力なのです。

聖人の生涯とは秘蹟、聖なる行為、聖なる崇拝そのものです。

神の子である聖者にとって、苦しみは避けられないものです。

なぜなら、キリストの言われているように、

「神の子にはまくらする所がない」からです。

義なる者になり正義を行いたいという、

果てしない思いのみが彼を動かしています。

エス様の誕生から磔刑での死に至るまでの生涯は、

自我の完成への過程を描いた雄大な物語なのです。

 

 

神の実在の中で、

大宇宙は自己実現に向かって変化を続けていく。

それは進化の歴史の中に刻まれていく。

小宇宙である聖者の生涯での出来事も同じです。

万物は一つになろうとする力の中に存在し、

自我意識の中で自己を認識する弛まない努力をしています。

それゆえに生命のあらゆる段階は必要とされる瞬間なのです。

すべての人の人生は、過去から未来に至るまでの、

個人の全体的な進化の本質を示しており、

それらの経験が完徳へとつながるのです。

エス様、そして主クリシュナの生涯とは、

個人の意識と「気づき」が初歩的段階から無限なる神格に至り、

完全に開花するまでの体系的な変化の直接的な実例と言えます。

意識的にかつ計画的に行われる霊的な努力のプロセスを、

進化を完全に描いた劇として、一人の人生に要約できるのなら、

エスの生涯こそ、

進化のドラマを具体的に描写したものと言えるでしょう。

エス様がこの世にお生まれになった時、

分国王ヘロデはその命を狙っていました。

そのため両親は遠く国を離れて、

エス様を守らなければなりませんでした。

 

 

主がどのように成長したのかは謎に包まれています。

やがてイエス様は神聖な人生についての福音を教え始めました。

彼は人々から、幾たびも抗う、様々な誘惑を受け、

罪の汚名を着せられ、不当な裁きで判決を受けて、

そして十字架上で亡くなられたのです。

 

人の霊魂も同じ様に、

物質と精神の力により閉じ込められ、

世界から抗われているのですが、

そのことを理解することによって、

纏をつらぬいて現れ始めるのです。

現れた霊的な火花が完全に消えてしまわない様に、

私たちは守らなければなりません。

これがヨーガの実践における予備段階です。

時々、霊魂は「暗い夜」に見失われますが、

不思議なことに後になって「暗い夜」から、

本来の完全な尊厳と力を携えて姿を現します。

そうすると、全ての行いと経験に霊魂の法が確立され、

宇宙の力が現れ始めるのですが、

人智の理解を超えた彼の立ち振る舞いは対立をもたらすのです。

 

 

最高我(アートマン)と新たに一致した個々の魂は、

この世界の自然の力に逆らっていることを理解します。

激しい誘惑に会い、あらゆる方法で試され、

この世的な普通の生活には不向きだと宣告さえされます。

それは神の領域の意識と、この世の人の欲を、

同時に持ち生きることが不可能だということです。

最高神の意志に従うために欲望自身を捨て去り、

至福に満ちた「無限なる者」との和合のために、

個性すらも投げ捨て、

心変わりの元となる、死すべき乗り物(肉体)や、

神から引き離す情熱に死ぬことさえします。

 

偉大なる理想を探求する上で、

霊的志願者が道をあやまたないように、

キリストの教えは本質的な原則を示してくれます。

霊的生活で成功するための、要となる鍵は信仰です。

「多くの人が聖職者の袖に腕を通すだろうが、

その人たち全てが本当の教師とは限らない」

と、キリストは人々に警告しました。

このような偽りの教師たちを警戒し、

真の教師であるキリストに信頼を置かなければなりません。

 

 

信仰の力とは、キリストが教えたように、

からし種一粒の信仰があれば、山を動かすことができるのです。

食べ物や衣服への憂いが志願者にあってはなりません。

エスの教えはこうです。

「神の知恵は人に優り、神は人を守る知恵に長けている」

「休息と光と救いだけを求め彼(神)のもとへ来ることこそ、

人の義務なのです」

更にこうも語りました。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と

言う者がみな天の御国にはいるのではなく、

天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです」

口先だけの謙遜や献身ではなく、

無条件の全託による心からの誠実のみが、

人を神のもとへ連れてゆくのです。

公共の礼拝、路上での祈り、太鼓を叩くこと、

それが霊的な努力を意味しているのではありません。

沈黙のうちに犠牲をおこない、

唯一神との絶え間ない強い一致こそ霊的努力の目的です。

 

 

「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、

彼らは飽き足りるようになるであろう」

「悲しんでいる人たちは、さいわいである、

彼らは慰められるであろう」

「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、

天国は彼らのものである」

人が神のために自分の命を犠牲にする覚悟ができた時、

神はご自身の姿を彼の前に現わすでしょう。

 

神の信者の卓越した特徴とは、

彼の存在そのもの、その全てが、

まるで甘い香りのように影響を与えるということです。

「丘の上に築かれた街は隠れることはありません。

その街の光が世を照らすからです」

 

人の存在の中心を形成する霊的本質は、

彼が神と一つとなることで、いかなる努力も必要とせずに、

彼を通して調和し、その姿を現すのです。

 

 

太陽が昇り空に姿を現わすと、ただそれだけで、

見る者の五感を通じて、その存在が感じられます。

しかしながら、

梟が太陽を知らず、盲人が光を見ることがないように、

無知な者は、世のいける神殿である、聖人を通して輝く、

神なる霊の活動に気づくことは無いのです。

キリストと弟子たちの活動は、

終わりある個としての、思いの成就の過程としてではなく、

大宇宙の神の栄光を確立するという、

広大無辺な活動の一部として理解されるべきです。

 

内側の世界、宇宙の君主からの霊的な恵みであり、

外なる世界に目に見える徴として天より降ったもの、

それがキリストの生涯であり、真の秘蹟サクラメント)です。

尽きることの無い神の愛、彼は肉を纏い、

人類をこの愛の源へと贖うために、罪を背負い苦しまれました。

愛と犠牲は不死の門を開く鍵です。

 

 

祈りについて申し上げれば、

自身の苦痛からの救いは求めず、

神の法を知らないために、苦しむ人々の、

贖いのために祈ることこそ、

愛と犠牲という美徳を、人生で花開かせる真の姿です。

キリストが起こした奇跡は、主の全能の力を示していますが、

その力は救いを求める人々のためでした。

エス様の生涯をかけた使命とは、

人々の目を開き、地の埃の遥か上に輝く光を見せるだけでなく、

正義のために悪とサタンの誘惑に打ち勝ち、

まさにこの地上に天の王国の旗を掲げることだったのです。

この世での生活とは、

地の相対的法則と神の絶対的法則との融合です。

カエサルのものはカエサルに返しなさい。

神のものは神へ返しなさい」

ルカ福音書20章20~

 

 

霊的志願者が神と地上の王国の両方の法を理解して、

調和のうちに霊的な熱望を発達させることは、

この相対的な人生の中で、非本質を強調しすぎたり、

本質を無視することなどの誤りを防ぐために必要なのです。

人間とは、神と獣性が一点で交差しており、

彼の内にある神の力を知性に適用することで、

彼の内で活動している非神性の力、

獣性を超越しなければなりません。

 

キリストは素晴らしい現実主義者でしたから、

天にまします父のようになりなさいと、

優しさ、愛、奉仕、神への礼拝の重要性を強調したのです。

彼は偉大な理想主義者でしたから、

天の王国は人の内側に存在し、

「人を汚すのは外から入ってくるものではなく、

人の内から出てくるものである」と断言したのです。

この広大無辺な世界の単一性と有機的な性質は、

宇宙における人間の経験という理想的な性質が、

実存と総合されて顕現した無秩序と言えます。

神はその内に存在し、またその外にも存在します。

世界は私たちの内に存在し、また私たちの外にも存在します。

苦行と愛はどちらも私たちの責務です。

内なる力と外なる力という、平行する世界を統合することで、

世界の霊的な復興を成し遂げて、

この地上に神の王国を樹立できるのです。

キリストの教えによると

注意深い学徒は知恵と聖性、形而上学と倫理、

現実主義と理想主義、自我の放棄と自己表現、

知識とその対象を、最も驚異的で分かりやすい形で理解します。

神の人のみがそれができ、

キリストはそのような存在でした。

彼の人生は訓戒であり、彼の教義は神の言葉でした。

彼の教えを聴き、従うことによって、

永遠の幸福が約束されています。

楽しいヨーガライフの提案をしていきます